推薦者:小结

2025.01.26
50m 48s
冒頭の「ありふれたアンチノミー」は、二分間のアンビエントなPoemloidで、新しい宇宙の始まりを描く。芥田レンリのアルバム『白む景色の向こう側』が思い浮かぶ。曲全体を流れる優しいピアノの中で、ナースロボ_タイプTの詩の朗読は、浅瀬の岩のように音楽の波に洗われる。声と背景音のどちらかを意識から外し、もう一方に耳を傾けることも、いつでもできる。両者は劇の主体と舞台装置のように絡み合い、それぞれ異なる方向から空間を形作る(この特徴は『文学』のほかの曲にもある)。damaは、この二つの空間の位置関係によって、それぞれの身体を作り直す。たとえば語りが始まると、ピアノが実は穏やかではない水の波であり、かすかな震えやノイズを含んでいることに、すぐ気づく。語りの自然な間や速度の変化も、ひときわ鮮明になる。
「あの夢で聞いた旋律の類義語を探す。展」(以下「夢」)も、ピアノを中心にした曲だ。ただ、冒頭曲とは違い、語りに代えてフォークソングのような歌唱を用い、くすんだ電子音、明るい弦の音、ドラムを加えている。曲も長い。めろうの言葉にならないハミングは、曲の初めと終わり、そして歌詞を詩のように明確な二節に分けるなら、その節と節の間にも現れる。そのたびに、リズムに少しずつ変化をもたらす。この歌声こそ「夢」の魂だといってもよいだろう。歌詞には「全て曖昧なままで/変わってゆく/送り火とうに過ぎて」(一切依旧暧昧不清/逐渐改变/如同送魂火般匆匆逝去)とある。言葉が途切れる場所は、過ぎ去った世界と、これから来る世界の両岸だ。私たちはそこで自分の心を遊牧させ、生者と死者をしばし共に歩ませる。言葉が再び音楽から現れるまで。
「鯨骨発電の町の終わりに」(以下「鯨骨」)は、damaの創作の転機となった曲だ。感情の表出を中心とする書き方から、輪郭のより明確な物語を観察する書き方へと、軸が移り始める。「鯨骨」「レプリカントと海燕の旅路」「ミニ雲海に手紙を投げた(Ambient Remix)」(後二曲を以下「旅路」「雲海」とする)は、いずれもこうして生まれた曲といえる。アルバムの中に、夢のような映像をいくつか差し挟むのだ。物語の舞台は、現代社会から遠く離れた世界の片隅(「鯨骨」)であったり、人類がすでに存在しない未来(「旅路」「雲海」)であったりする。小説よりも寓話や童話に近いこれらの物語は、共感や懐かしさの象徴だ。それらは雪の凝結核のように『文学』の中盤に散らばり、何か手ごわいもの――たとえば運命――のまなざしを、私たちの代わりに引き受ける。
鯨の骨で発電する町は、このアルバムで最も謎めき、同時に主題にもかなったイメージかもしれない。「百年ぶりらしい彗星が街に落ちて/氷漬けの夜を 照らした」(据说百年一遇的彗星坠落于街道/照亮了冻结的夜)という始まりから、物語には破滅や犠牲の予感が漂う。音楽にも、悲しみを帯び、曲がりくねるギターと旋律がある。damaの語りの中の影は、雰囲気というより、一つの実体に近い。主人公も聴き手も、その影の手触りを感じられる。この特徴は「旅路」にも続く。そこでは、弦楽器、呼吸するようなシンセサイザー、複雑なドラムが影を作っている。「鯨骨」と「旅路」は、同じ主題が二つの時間軸で形を変えたもののようだ。どちらもポストロックで、構成や演奏のあり方が似ており、ある種の断絶や喪失をなぞることを語っている。鯨の骨と海燕――絶滅した巨大な生物と、海辺を飛ぶ未知の機械――も、互いを裏づける一組のイメージだと思えてくる。damaの暗室で、私たちはその姿を少しも違わずに見て、不安でありながら親密でもある声を聴くことができる。
ここで考えずにはいられない。『文学』の語りは、完全に個人的なものなのだろうか。このアルバムは、アンビエント、ポストロック、エモ、シューゲイザーなど、感情の表現に向いたジャンルを取り込んでいる。damaのnoteにある2024年の随筆を読むと、発表済みの十二曲の制作背景がわかる。その多くは、具体的な経験や特徴から育ったものだ。けれど、「遺族の惑星」が自殺した三人の友人に向けて書かれたと知っても、私には、めろうの声から以前より多くの痛みを聴き取ることはできなかった。damaの個人的な経験は、曲に幻のようなイメージをいくつか与えるにとどまる(たとえば「遺族の惑星」や「ワーストグラビティ」)。彼はそのイメージから、新しい物語を動かす。既知と未知のあらゆる出来事(独白)、ギターと寂しい弦の音(映画)、有機的でも無機的でもある合成音声(dama、あるいは私たちの道連れ)。それらの間には、簡潔で澄んだ理解が行き交い、互いが並んでいられるようにしている。創作にまつわる感情と、音楽の感情。damaは、前者をそのまま後者に貼りつけたり、後者の中で前者を呼び出したりはしない。互いを覆い隠し、あるいは重なり合う二つの部屋に、それぞれを潜ませる。灯りのスイッチを入れると、いつまでも続く風の音が聞こえる。
すべてが終わろうとしているという予感を、「隙間」ほどよく伝える曲はない。構成だけを見れば、この曲はそれまでのどの曲よりも簡潔で、澄んだギター、ベース、シンプルなドラムとシンセサイザーだけでできている。題名どおり、雨歌エルの歌には隙間が満ちている。その声は、想像しうる限り最も軽く、最も豊かな愛撫だ。そして「隙間」で語られた心の空洞が、続く「空諦高速湾岸線」で、なでるように癒やされるのを感じる。待ち望んでいた、肩の力を抜ける曲だ。それまでの後悔、憂鬱、落胆、迷いは、もう新たな傷や危険を生まない。私たちはようやくそれらを信じられる。水の中で闇を信じられるように。一瞬一瞬から届く光が集まり、「つながれぬ舟のような身」であるという感覚を生む。
今年の初め、ちょうど『文学』の発売から一年が近づく頃、damaはnoteに散文「喪失」を投稿し、「私に弱さを見せてくれる人が好きだ」と書いた。私にとって『文学』は、damaが弱さを見せる作品であると同時に、弱さを見せることへの彼の返答でもある。世界には困難があまりに多く、対処しきれないことのほうが、私たちにできることよりも多い。それでも、私たちにしか開けられない扉がある……。damaはいつも、心を挫き、混乱させるものを歌う。たとえば、人生の一つの季節のようなものを。それらが心に残す飾りや願い――傷跡ではなく――は、ともかくも、愛着を抱くに値する。この愛着があるから、私たちは時間の中で変わっていく自分の輪郭に、心から触れられる。子どもたちが、すぐには元に戻せないルービックキューブで、いつまでも遊べるように。
だからこそ、「空諦高速湾岸線」には、あの歌声があるのだ。「暮らしの色々な矛盾を愛していこうね。」(去爱生活中各种各样的矛盾吧。)