推薦者:苦以忧

2025.12.29
44m 58s
あまり標準的ではない中国語でアルバム名を読み上げたとき、「身近」の響きが偶然、私たちの雑誌の名前によく似ていることに気づいた。その偶然だけでなく、シンプルでかわいく、遊び心に満ちたディスクジャケットも、最初に目を留めた理由だった。よく見ると、真ん中に一羽の鳩がいて、その周りに花、鍵、カメラ、家、ゲーム機のボタン……が並ぶ。これらが鳩の周囲で交差し、「身近」というタイトルを具体的に説明している。
「エンドリン·はと」(最後の鳩)は、「終わり」をアルバムの「始まり」に据えた、リョコウバトのための挽歌だ。かつて「最も絶滅しそうにない」といわれたこの鳥は、百年前に絶滅を宣言された。背景の雨音、遠くの鳴き声、風にそよぐ木の葉のようなざわめき……。懐かしいピアノの音色に寄り添うこれらの音は、過去から現在へと広がるが、未来へは流れていかない。和音を奏でる電子音と拍の頭を刻むキックが、手を取り合って前に進む。その様子は、リョコウバトのとぼけた愛らしさによく合っている。映像の中で不思議そうに首をかしげる姿が、頭から離れない。けれど、この鳥が考えているのは、答えの出ない謎なのだ。「どこから来たのか」「どこへ行くのか」という問いがこの鳥にまとわりつき、曲を聴く私をも閉じ込める。
背景を知らなかったときにも、私は何度かこの曲を聴いて涙を流した。初めて泣きながら歌詞を開くと、そこには「わたしは一鳥が/一鳥が/こんなに悲しいの?」(我作为一只鸟/为何会如此悲伤?)とはっきり書かれていた。そのときようやく、自分の感情が、思いがけず物語の主人公と共鳴していたことに気づいた。この偶然の重なりに強く心を打たれ、音楽と歌詞の結びつきの深さ、そして感情を伝える力の強さを実感した。
「内緒のサンタさん」の始まりも、どこか沈んだ空気に包まれている。クリスマス前にはいつも、楽しみにしているふりをする「悪い子」の重音テト。この葛藤を抱えたまま、ずっと悲しみに沈むかと思われた。ところが11歳のクリスマス・イヴ、未来の自分が机の引き出しから時を越えて現れ、この赤髪の少女を地域のサンタクロースに任命する。重音テトのために作られたキャラクターソングとして、稲むりは実に細やかな工夫を凝らしている。UTAUエンジンで最も初期の歌声ライブラリである飴屋調整版の重音テトが子ども時代の自分を、Synthesizer Vエンジンの重音テトが未来の自分を演じる。異なるエンジンで異なる時期の自分を「演じる」ことで、物語の中の直線的な時間を崩すとともに、物語の内と外の空間を響き合わせ、第四の壁を破っている。曲全体を豊かで面白くするだけでなく、象徴的な意味も持つ選択だ。
もしある日、未来の自分が突然目の前に現れ、サンタクロースになるよう求めてきたら、あなたはどうするだろう。次の「さよなら領宇チュー」(私たちの宇チューにさよなら)は、その問いに答えているようだ。「Maybe there is no such thing as a choice without regret」(或许没有不留遗憾的选择)。この曲は、稲むりの前作「レトロフューチャー·ビーイング」(Retro-Future Being)と同じ歌い手の組み合わせで、知声と足立レイがそれぞれ少女とネズミを演じ、巨大な図書館での出会いを語る。ネズミは小説に夢中で、人間の大きな体と広い見聞をうらやむ。一方、少女が図書館に隠れたのは人間を避けるためで、むしろネズミの「読みたいから読む」という純粋な自由をうらやんでいる。速く、絶えず変わるリズムの中で、知声と足立レイの声が交差し、絡み合う。まるで見えない力に追い立てられ、狭い本棚の間を走っているようだ。時折顔を出すギターやグリッチ、壮大なリバーブは、狭い図書館に広い宇宙を切り開く。
「スライ村」(スライムの村)は、スライムの視点から、人間の侵略に抵抗する物語を描く。従来の冒険ゲームとは正反対の筋書きだ。この立場の転換によって、物語は人間中心主義に抗う色合いを帯びる。
断続的なアコースティックギターで始まり、すぐに弾むようなプラック音が続く。ついなちゃんの声の断片が次々と入り込み、Aメロに軽やかで調和のとれた空気を作る。スライムの村に笑い声が響き、平和な暮らしが広がる様子が見えるようだ。ところが、最初のプリコーラスでウォブルベースとサブベースが加わると、スライムと人間の間に高い壁が築かれるように、かすかな不安が生まれる。二度目のサビの前では、緊張感がさらに強まる。アタックが短く、すぐに音が収まるピアノが、ソン・クラーベのリズムで和音を奏でる。耳を刺すような破裂音が次々とあふれ出し、大きな戦いが近いことを告げる。
ただし、この曲は物語を直線的に語るわけではなく、随所に昔のゲームらしさがにじむ。主要なリズムは一貫して拍の頭を捉え、ほとんどの音が短く素早い。音と音の間が途切れ、音楽そのものまで「コマ落ち」しているようで、チップチューンの味わいが濃い。サビに入る管楽器は、曲に冒険らしさを強く添える。終盤のテンポが変わる場面では、リディア旋法と三連符が、スライムの凱旋を描く。さらに稲むりは、映像にも音楽とよく合う古いゲーム風の表現を用いている。クライマックスでは、グリッチがヘッドフォンと画面の両方で弾け、見事な視聴覚体験をもたらす。
「はと·オン·ザ·フロア」(床の上の鳩)も、鳩の視点に立つ曲だ。今回は、鎌倉八幡宮の白いカワラバトが主人公となる。「Hato on the floor」というタイトルは、曲のダンスビート「Four-On-The-Floor」に呼応しているようだ。本来は空を飛ぶはずの鳩が、地面(Floor)という現実のダンスフロアに閉じ込められ、拍の頭のグルーヴに合わせて左右に揺れる。生きるために身を低くしながら、人間が与えた「平和」「神聖」といった大仰なラベルを、冷ややかに笑っている。
この明るい章の中で、「これからバーブ」(ここから動き出す)と「あきのそら」(秋の空)は、同じ話題を別の視点から語る二曲のようだ。前者は足立レイの歌声を使い、ロボットの視点で夢の中の見聞や、一個体としての迷いを描く。「バーブ」(verb、動詞)を次々と重ねて生きている実感を確かめ、空間の「Reverb」(残響)を、自分の存在に対する世界からの返事と捉える。後者は人間の視点に切り替わり、ロボットと肩を並べて探索する秋の日々を記録する。両曲ともリズム隊に工夫がある。「これからバーブ」は、ラテン音楽やAfrobeatsにつながるハバネラのリズムを使うが、足立レイの冷たい電子的な声による解体を経て、従来の異国的な熱気を失っている。「あきのそら」は、ジャージー・クラブ風のリズムで幕を開け、最初のサビでボサノヴァのグルーヴを加える。稲むりは異なるリズムの形を解きほぐし、豊かな変化を与える。従来のダンスミュージックよりも層の厚い曲に仕上げるその手つきは、クリエイター自身のしなやかな感性にもよく合っている。
「くらげネイティブ」(クラゲの先住民)は、回転するような6/8拍子でアルバムを締めくくる。空気感を作る楽器や、各所を彩る「雑音」がカゼヒキの静かな歌声に寄り添い、浮遊感の中にも、硬い手触りの痛みを感じさせる。ゲスト奏者・四度寝のエレキギターも、曲の聴き心地をさらに豊かにしている。最後の歌詞「来年は会わないといいね、地球人さん」(明年最好还是别见面了呢,地球人)で、物語の主人公の正体がついに明かされ、人間ではない視点が再び広がる。
稲むりは、一つ一つの物語で、しばしば「人間ではないもの」の視点から、人間に関わる物語を語る。それぞれの曲が一枚の鏡のように、人間以外の生き物を通して人間を観察し、映し出す。「身近」は、こうして身を映す鏡――「身鏡」になるのだ。
稲むりの音楽には、控えめで繊細な感情の核がある。美しい旋律、豊かな編曲、見事なアニメーションを通して、豊かさに満ちた、感性豊かな世界を聴き手に見せてくれる。従来のポップスで比較的固定されてきた和声の枠を破り、軽やかな転調や巧みな一時的転調を曲に組み込む。複雑な和声と電子的な響きが合わさることで、アルバムは変化に富みながらも、流れがよく、耳に心地よい。電子的な音でポップスを包み、形作り、日常の内にも外にも目を向ける。それはまさに、今という時間の中にある私たちの位置を、そのまま示すことでもある。このアルバムを繰り返し聴くたびに、心を動かす物語や感情が、幾重にも私を包み込む。その感覚は音楽から生まれるのに、音楽そのものを越えているようにも思える。