「新文人音樂」: 合成音声、音楽の身体性と生産の強迫への抵抗

翻訳・校閲东埋ChatGPT

文:s62

図1

バーチャルシンガーの身体と演奏者の身体は、自己を参照する音楽実践のなかで一つになる。

「新文人音楽」:
合成音声、音楽の身体的な実践、そして生産の強制への抵抗

一、「新文人音楽」を実践するのは誰か

昨年4月、TN163の初EP『极简主义者的茶歇(極簡主義者の茶歇)』がDizzymart 021で初めて頒布されることになった。宣伝でその独自性をうまく伝えるため、私は「新文人音楽」という言葉をでっち上げた。そして今年の初め、鹿野潭之の『颐和园(頤和園)』が出ると、ちょうどこの概念をまた持ち出し、大いにあおってみた。それ以来、現代的な楽器編成や作曲技法を持ちつつ、歴史に位置づけられる重厚な物語や、文人文化の美的なイメージも備えた合成音声作品を、この言葉で呼ぶ人が増えてきたようだ。先日終わったばかりの「術另」のイベントでも、自発的に「新文人音楽」と呼ばれる独特な作品が、次々とネットに現れた。この機会に振り返ると、やはり、この言葉に初めに込めた意味は浅すぎたと思う。

最近、友人に頼まれ、「新文人音楽」をきちんと定義することになった。長く考えた末、やはり、記号の借用からではなく、その実践の本質から説明すべきだと思った。こうして書いたのが本稿である。すでに放ってしまった新しい音楽の矢に、古のものを借りて、ひとまず格好のつく的を描くようなものだ。

私の音楽制作の経験はごく短い。それでも、不思議なことに、いろいろな人とつながることができた。ネットで名を知られる人もいれば、めったに姿を見せず、生活の場でときどき会うだけの人もいる。後者の例を挙げると、長沙には、合成音声の音楽を長く聴いてきた演奏家の友人が二人いる。ネットやイベントで作品を発表したという話は、ほとんど聞かない。でも、暇があれば一人で即興をし、面白いアレンジを録って、そのまま置いておく。毎回、時機が来たらイラストレーターやPV制作者を探して発表すると言うのだが、いまも、それほど気にかけている様子はない。帰省するたび、私も彼らと小さな即興の集まりや実験的なチューニングを録音するのを楽しんでいる。録音とはいうものの、そのプロジェクトファイルがまだ残っているのかさえ、おそらく誰も知らない。ネットで有名なボカロPになった友人にも、ネットの仕組みをよくわかっていながら、そのためにあくせくしない人が多い。アカウントは、作品を一方向に公開する手段として使うだけで、気が向いたときに投稿する。残りの余暇の多くは、個人的な音楽の体験や研究に費やしている。

ネットや公の場での活動を通じて、彼らの存在を知ることは難しい。いや、彼らが具体的にどのような生活を送っているのかを知ることが難しい、と言ったほうがよいかもしれない。この点で、彼らは大衆の視線から距離を置き、一人で、あるいはクリエイター同士で交流する時間の中で、音楽を実践することそのものを楽しんでいる。こうした「独善其身」の志向は、古代の文人や世俗を離れて生きる人々と、確かに通じるところがある。しかし、だからといって、彼らが古代の儒者や士大夫、隠者と同じように、意識的な「隠者への憧れ」や「貧士への憧れ」を抱いて、こうした創作生活を送っているとは限らない。むしろ、特有の成長や学びの経験を長年にわたって省みるなかで、意識的に、あるいは無意識のうちに、創作の道筋を少しずつ別の方向へと転じてきたのではないだろうか。そして、音楽が生み出す精神的な力と自立した人格をもって、現代生活の困難に向き合っているのである。そうした精神的な力を担う文化的な記号として、独自の音楽スタイルやバーチャルシンガーの視聴覚的なイメージが、彼らの創作実践の中で表現される。このような実践から生まれる音楽と、その創作過程全体を、「新文人音楽」と呼ぶことができるのかもしれない。したがって、編曲に伝統楽器を取り入れたり、楽曲の形式を古典音楽に近づけたり、紋切り型の文人精神をまとわせたりするだけで、「新文人音楽」になるわけではない。一方で、現代の道具だけを用いて現代の音を生み出し、思いのままの形式で、苛立ちを抱えたこの「現存在」のあり方を表現することもできる。この概念は、エリート主義的な立場を標榜するものでもない。ここで提唱されているのは、誰にでも開かれうる創作の倫理なのである。

ただ、目の前のいくつかの例だけで「新文人音楽」を定義しても、話の始まりも行き先も見えない。まず、従来の文人音楽とは何か、その背後ではどんな精神が歴史を貫き、音楽の生まれる営みを支えてきたのかを、明らかにする必要がある。

二、「風骨」について

音楽は『周礼』の六芸の一つであり、太古から、文人の暮らしの大切な一部だった。古代音楽の社会史を見渡すと、文人音楽はつねに、もっとも内省的で独立性の高い音楽の形だった。唐代については、「文人音楽の文化的な形は、文人・士大夫の参加の仕方、行動や表現の仕方、活動の場などの独自性によって、宮廷の華やかで贅沢な宴楽や歌舞とも、民間の自発的で自ら楽しむ民俗音楽の活動とも、かなり異なるものとなっていた」2。科挙制度が過去となり、士大夫層が解体した現代社会でも、大学生を中心とする今日の知識人が作る内省的で独立した音楽には、さまざまな面で古代の文人音楽との共通点が見える。この人々のあいだに深く根づいた合成音声文化も、自然と、新文人音楽が育つ豊かな土壌となる。

文人を語るなら、「風骨」にも触れずにはいられない。前漢・後漢から六朝を経て、その後の歴史を通じても、「風骨」は、もっとも魅惑的で、多くの意味を持つ文化概念の一つである。

「風骨」を理解するため、まず、その意味の源に戻ってみよう。劉勰は『文心雕龍』「風骨」で、「悲しみを述べ、情を表すには、必ず風から始める。思いを巡らせて言葉を並べるには、骨に先立つものはない。言葉が骨を必要とするのは、身体が骨格によって立つようなものだ。情が風を含むのは、姿が気を包むようなものだ」と書く。風は、感情や志が人を動かす力であり、作品の内側にうねる生命である。骨は、意味や道理を支え、言葉の構造を立たせる骨格である。風がなければ活力を失い、骨がなければまとまらない。二つを備えて、初めて文章となる。文人が、政治や哲学の役割にとどまらず、独立した美的な存在として長くあり続けたのも、「風骨」を中心に据えていたからだ。「風骨」は、もとは人物を評価する言葉であり、やがて書画、詩文、琴の理論へと使われる範囲を広げ、中国の文芸批評を広く束ねる中心的な範疇の一つとなった。ただ、一見明確な伝統概念の多くと同様、「風骨」も、長い流通のなかで、すでに一つの意味には収まらなくなっている。嵇康が処刑を前に琴を求めて「广陵散(広陵散)」を弾き、当時の人がその「風骨の峭峻さ」をたたえたとき、そこには、妥協せず屈しない人格が示されている。司空図の『二十四诗品(二十四詩品)』は「勁健」の一品を立て、「精神の運びは虚空のように、気の運びは虹のように」と述べる。ここでは、すでに作風を論じる一つの指標に近い。また、琴の理論でいう「清骨」や「古風」は、奏者の指遣いや音の質、そこに漂う気配を指すことが多い。こう見ると、風骨の意味は、つねに個々の歴史的な文脈で揺れ動き、一度も確定した解釈を持たなかったかのようだ。それでも変わらないのは、「風」と「骨」という対の概念が生む、構造上の緊張関係だと思う。風骨は、ある作品や人格における、「感発」と「持守」、「流動」と「堅固」、「情」と「理」の弁証法的な統一を示している。

この緊張関係を、もう少し広げて考えてみよう。「風」のもとの意味は、空気の流れだ。風と人間の呼吸、つまり「気」は、同じ構造を持つ。風は自然の呼吸なのである。『诗经(詩経)』は、すでに各地の民謡を「風」と呼んでいる。そのほとんどは、生命の経験が直接あふれ出たもの、つまり「情が内に動き、言葉に形を取る」という最初の衝動だ。一方、「骨」は、その衝動に形を与える精神的な存在である。骨がなければ、情は付着する場所を持たない。流れ続ける「風」も、来ては去り、すぐに散って、具体的な創作の内容にはまとまらない。しかし、骨だけがあり、そこに情が流れなければ、最後には、生命の乏しい枯れた形式だけが残る。文人音楽の価値は、宮廷音楽の華美や威厳へ安易に流れず、文字や語句の解釈に固執するような硬直も退け、「情」と「理」、「感」と「思」の往復する揺れのなかで、耽溺せず、枯れ果てもしない中道を探すことにある。この中道は、今日の合成音声文化が直面するさまざまな状況に置くと、不思議なほど現代的な意味を持つ。古人の「風骨」は、礼楽の秩序が崩れた乱世で、己の琴の音によって人格の全体性と道義を保つことだった。いま私たちが向き合うコロナ禍後の文化の景色にも、遠く魏晋の世を望むような一面がある。こうして、新文人音楽の「風」は、身体的で、流動し、生成する音楽の実践となる。その「骨」は、生産の強制の大きな流れにあっても、自らの構造を保ち、崩されずにいられる力なのである。

現代の合成音声の創作、さらには同人や独立した音楽制作全体の文脈でも、「風骨」は、もっと具体的に説明されるべきだ。新文人音楽における「風骨」は、創作倫理の原則であり、同時に、感覚で捉えられる具体的な音の質でもある。新文人音楽という概念は、次のような問いを促すのかもしれない。私たちの書く音は、具体的な暮らしの実践から「生まれて」いるのか。それとも「生産されて」いるのか。アルゴリズムとミームの奔流のなかでも、その音は、見分けることができ、アクセス数に歪められない、誠実な構造を保っているのか。こうした問いは、続く第三章、第四章で順に考えていく。いずれにせよ、「風骨」の意味は、すでに一つの座標を示している。クリエイターが内に向かい、「どう声を出すか」「なぜ声を出すか」を決める、そのつどの始点から、新文人音楽の波紋は広がっていく。

三、合成の風:音のない歌と、音のある舞

前述のとおり、合成音声の文脈における新文人音楽の「風」は、身体的で、流動し、生成する音楽の実践だ。この定義は、現代哲学のさまざまな意味から理解できる。尼采(ニーチェ)の「力」や「力への意志」、梅洛-庞蒂(メルロー=ポンティ)の肉の現象学、德勒兹(ドゥルーズ)の「欲望機械」や生成論。どれも、新文人音楽の実践に宿る生命力や、その深い美的な特徴を説明する手がかりとなる。先人による議論は、すでに十分にある。いま足りないのは、新文人音楽が具体的にどのように実践されるのかを記すことだ。その姿を描けば、創作のための建設的な提案をさらに得て、最後には、一つの方法論にまとめられるかもしれない。

文人音楽は、多くの場合、私的な時間と空間のなかで行われる。第一に音楽の実践があり、伝えることはその後に来る。聴き手の存在を前提とする必要がないので、「手を大きく動かして見せる」ような演技の欲望もない。代わりにあるのは、争わず、せき立てない、創作上の抑制である。「もし音を理解する友に出会わなければ、むしろ清風明月、青松奇岩、跳ねる猿や老いた鶴に向かって弾けばよい。それこそ、自らその楽しみを得ることだ」3。文人は、空間、身体、儀礼4と音楽実践の関係にも目を向け、それを通じて自分を、時間を、空間を肯定する。典型的な体験が、王维の「深い竹林に独り座り、琴を弾き、また声を長く響かせる」という一節だ。これは、いわゆる「天人合一」であり、梅洛-庞蒂(メルロー=ポンティ)が『眼与心(眼と精神)』でいう「世界に身体を貸す」ことでもある。文人にとって音楽とは、おおむね、身体と世界をつなぎ、さらには溶け合わせる媒介なのだ。

今日のように多彩な楽器やシンセサイザーのなかった古代に、金の鐘や玉の磬のような響きとも、騒がしく耳障りな音とも離れた楽器を選ぶなら、七弦琴と洞簫だった。琴の音は落ち着き、簫の音は遠く響く。文人が、自分と時間・空間との関係を捉えるのに、よく合っていた。私も漢陽で梅庵派の先生に学んだことがある。譜に従って琴を弾くと、右手で弦を鳴らした後、吟猱綽注と呼ばれる左手の奏法が、ひどく長く続くことがあった。弦の振動が止まり、指が弦や琴の胴をこする音しか残らないほどだった。後になって、これは千元あまりの古琴の性能が悪いからでも、拍の理解を誤ったからでも、古人の記譜に間違いがあったからでもない、とわかった。後半の音は、もともと、琴の響きを知覚から想像へ移すものなのだ。一時的に知覚を離れながら、切れた蓮根の繊維のように、なおつながる音楽体験を得る。その蓮根は琴の音の現象であり、繊維は、琴を弾く人の意識が音へ向かう志向である。『谿山琴况(谿山琴況)』には、「ほかの音は淡ければ味がないが、琴の音は淡いほど味わいを増す」とある。胡塞尔(フッサール)も、私たちの意識に現れるものは、実際に存在するかどうかにかかわらず、世界の一部であり、志向的対象として成り立つと考えた。長年にわたる文人音楽の実践は、連続する知覚の過程を生む。奏者の音の知覚と身体の動きが次第に強く結びつき、ついには、偉大な音はかすかであるという境地に達する。陶潜が弦のない琴を弾いたこと5は、おそらく、その状態の歴史上の極限だろう。

図2

筆者の古琴。

文人的な合成音声のクリエイターも同じだ。一般の合成音声文化が集中するネットを、自分の実践の意味が生まれる場所とはしない。核心にあるのは、私的な即興演奏や創作の時間だ。そして、バーチャルシンガーとの関わりが、伝統的な文人音楽の身体経験を作り変える鍵となる。

「調教」のような、界隈で慣用される意図的な当て字は、バーチャルシンガーの歌声ライブラリを買って使うことを、士大夫が芸妓を抱えるかのように表している。とはいえ、現代の合成音声による文人音楽では、クリエイターとバーチャルシンガーは、そんな単純で暴力的な関係にはない。クリエイターが歌詞や旋律を書き、とくにチューニングで「息づかい」「音素」「テンション」などのパラメーターを動かすとき、実際には、身体の再配分が行われている。ボカロPの音楽的な衝動は、最後には、歌い手とともに踊るなかで結晶する。そのとき、ボカロPの身体は、バーチャルシンガーの身体でもある。逆も同じだ。バーチャルシンガーの理想的な歌唱の身体と、ボカロPの創作・演奏の身体が一つになる。二人は現実空間とデジタル空間の両方にいると同時に、どちらにもいない。ボカロPにとって、新文人音楽は、現実社会での役割から身を引くことを可能にする。同時に、短い動画が中心となったネット時代の、記号を生産する強制や、神のような人物を作り上げる動きからも身を引かせる。

現代の暮らしのなかの、特別な意味を持つ空間と、ひと続きの時間。そこで彼らは、楽器、シンセサイザー、DAW、合成音声エンジンを、ただ使い、探ってもいる。現代の音楽制作の道具を、音楽産業によって疎外された創作欲に占領させず、音楽の身体的な実践の実践へ返す。演奏のなかで音の現象が自然に現れ、合成音声の想像上の身体が持つ物語の可能性が、意識の投影によって自然に流れるようにする。それを長く続けると、音楽は、機材、歌声ライブラリ、労働の操作にとどまらず、世界全体につながる。市場で朝食を取るとき、湖のほとりに静かに座るとき、深夜に道を急ぐとき。暮らしのどの瞬間にも、彼らは自分の志向と行動を十分に捉え、時間という弦の吟猱綽注のなかで、現代生活の「背景ノイズ」のなかで、楽音を聴く。空調のうなり、遠くの車の流れ、キーボードを打つ音。自らの意識でそれらを奏で、後の具体的な音楽実践で、新たな音に結晶させることもあるだろう。音楽産業では、行方も知れない制作者たちも、商品の音楽を消費する人々も、ともに、生産の強制が求める「新しさ」と「充満」に縛られがちだ。だが、このボカロPたちは袖を払って去り、あくせくすることを忘れ、具体的な暮らしのなかで、人々の視野に現れない音と対話する。

創作は、表現を第一の目的にしなくてもよい。物が必ずしも商品でなくてもよく、使用価値があっても交換価値はなくてよいのと同じだ。こうした暮らしは、つねに語ることを求め、抽象的な人とも、具体的な人ともつながろうとする創作より、かえって長く続けられるのではないか。こうした実践が一つの生き方を形作り、時間の流れのなかでボカロPたちが足場を得るようになったとき、「新文人」の「音楽」は、貴重な断片として、人知れぬ現実の時空やネットの片隅に、自由に散り始める。だから、ネットに発表され、合成音声の新文人音楽と呼べる作品は、ほとんどすべて、余剰なのだともいえる。クリエイターが現代の文人音楽の実践を通じて、「自己」を十分に生み出した後の余剰。バーチャルシンガーが、消費されるあらゆる可能性を尽くし、最後にクリエイターの精神的な体験へ帰った後の余剰である。主体同士の交わりが偶然に起こるときにだけ、その動機に促され、彼らは一定の規模の流通単位に固定された音楽を作る。そのとき、「新文人音楽」は、実践の範疇から、語る対象へと変わる。公開される「新文人音楽」にも、共通点がある。想定する聴き手はかなり限られているが、作品の趣にわざと制限を設け、一般の人を近づけなくするわけではない。作品は人々に開かれていても、クリエイターは、消費の対象としてネットの巨大なスペクタクルの再生産に加わることを、第一には意図していない。(ただし、再生産を避けられない場合もある。竇唯の後期の新しい民族音楽の作品について、配信サービスのリスナーの書き込みを見れば、その一端がわかる。)

図3:小陈书店の新曲披露会

図4:小陈书店の新曲披露会

図5:小陈书店の新曲披露会

小陈书店での新曲披露会。私的な口コミだけで告知され、意図して撮影することを勧めない演奏の実践である。本が視界いっぱいに並ぶこの場所では、聴き手は、ライブハウスなどの専用の会場のように、特定の場の力に巻き込まれない。演奏を見ても、背を向けてもよい。音楽に耳を傾けても、本を読む背景の音として聴いてもよい。

だからこそ、ポップミュージックの論理では、「新文人音楽」を本質的な要素として音楽生産に組み込むことが難しい。(ただし、聴き手が「国風」を理解するのと同じように、記号としての「新文人音楽」を捉えるようになれば、話は別だ。)合成音声文化を含むポップミュージック全体の議論のなかで、「音楽産業」と「音楽の機能」は、おそらく、新文人音楽ともっとも相いれない二つの概念である。

音楽産業の側から見ると、商品の音楽を作る多くのクリエイターに求められるのは、細かな分業と大きな共同制作のなかで、慣れた実践の道筋を十分に使い、要件に合う仕事の一部分を完成させることだ。彼らにとって音楽の能力は技術であり、実践そのものにも、自己を実現する動機は、それほど含まれない。一方、文人的なクリエイターにとって、音楽を学ぶことは、新しい言語と、新たに自己を生み出す方法を身につけることだ。逆にいえば、新しい言語は音楽だけに限らない。音楽以外の記号体系も、すべて使えるものにすべきである。古代の文人が、詩、書、絵、音律を互いに結びつけたのと同じだ。そのため、文人的なクリエイターは、幅広い美的な実践によって、理解する力を深め、表現の空間を広げようとする。さまざまな芸術表現をすでに身につけていたり、いま学んでいたりすることも多く、あらゆる表現手段を、確かな思想と感情の核へ、矛盾なく向けることができる。ただし、「文人」型のボカロPと、「一体機」と呼ばれる、すべてを一人で担うボカロPは、区別すべきだ。後者が一般に重視するのは、芸術形式を幅広く習得し、一貫した作品を作ることにすぎない。表現に深さ、独立性、内省があるとは限らず、流通や消費のために作るより先に、実践のなかで意味を見いだしているとも限らない。

音楽の機能の面では、文人は音楽の実践を、消費の対象ではなく、表現の手段として捉える。『鼓琴训论(鼓琴訓論)』にも、「音の華やかさや聴き心地のよさを求めるなら、琴を捨てて筝を弾くほうがよい」とある。アドルノによれば、現代のポップミュージックの価値は、もはや芸術性ではなく、市場での交換価値や成功によって決まる。真の音楽は、感覚的な快楽を与えるだけではいけない。トナリティの体系や、広く受け入れられて固定した実践形式など、同一性を作り出す道具による支配と抑圧に、対抗すべきである。音楽は「和解」を意味する正格終止6へ向かうものだ、と聴き手につねに期待させてはならない。調和した結末への期待は、現実社会の内なる矛盾や対立も、すべて和解でき、受け入れられるという幻想を、知らず知らずのうちに認めさせる。新文人音楽は、機能と道具的理性に抗おうとする音楽であるべきだ。その点で、合成音声の新文人音楽は、この道具の二つの機能を、さらに捨てることになるかもしれない。一つは、技術そのものとして、ネットのスペクタクル文化の再生産を速める機能。もう一つは、「バーチャルアイドル」に仕立て、同人創作を消費へ向かわせる機能だ。そうして初めて、文人的なクリエイターは、合成音声の道具に、合理性の想定を外れるものを探せる。それを、感情の表現を探り、身体の境界を曖昧にし、自己の価値を作り直す媒介とする。つねに技術よりも人を上に置き、深い文化的な実践を行うのである。こうして合成音声は、確定した技術的手段として同一性を打ち立てるものではなくなる。代わりに、「『VOCALOID』の脆弱性」7をあらわにすることで認識に揺れを起こし、そこに否定の意味を宿す。

四、合成の骨:合成音声文化における生産の強制と、それへの抵抗

身体的な実践された演奏を第一の本質とする創作の実践。そして、現象学的還元8を基本的な方法とする美的な実践。この二つが、澄んで、余剰を持つ美的な流れを生む。それを、新文人としての合成音声の創作の「風」と呼べるかもしれない。そうであれば、ポップカルチャーのコンテンツ生産の方法や価値体系のなかで、自分の私的な創作の形を保つ力が、その「骨」といえるだろう。

簡単にいえば、いまは映像や音のコンテンツが、つねに過剰に生産されている。合成音声の投稿もその一つであり、なかでも、とりわけ過剰かもしれない。この事実を見通すには、まず、推薦アルゴリズムと数値指標の至上主義を、深く批判する必要がある。ユーザーの自動分析と深層学習に基づく今日の推薦アルゴリズムは、合成音声文化とともに生まれ、初めから結びついていたわけではない。投稿の題名の前後に角括弧でタグを添える習慣も、推薦アルゴリズムのない時代には、内容をすばやく伝えるほか、関連する検索結果に、できるだけ表示させる役割を持っていた。推薦アルゴリズムの進歩とともに、ショート動画の時代が一気に訪れる。一方、音楽プラットフォームも、交流の場へと変わり始めた。もともと十分に短く、速く情報をやり取りしていたTwitterなどにも、新しいユーザーが大量に流れ込んだ。みんながネットで受ける感覚やアクセス数を考え、自分の生活を見せ物に変え、極端な内容や発言もためらわなくなる。主流の動画・音楽プラットフォームは、そこまで急進的にコンテンツの提供方法を変えなくても、すぐに本題へ入らない長いコンテンツを徐々に抑え、表示量を増やし、切り替えを速める。ユーザーが注意を向ける労働を、ますます深く搾取している。

合成音声文化はネットで生まれ、プラットフォームで育ち、聴き手も長く、そこに頼り続けている。そのため、聴き手の感情的な関与と、コンテンツを届ける仕組みの変化が、互いを強めることで、合成音声のコンテンツ全体も、生産と更新を次々に加速させる。つまり、韩炳哲のいう「生産の強制」9に入るのだ。いまの美的な基準でも、音楽作品とは呼びにくい初投稿が、焦るように公開されることも多い。まして、音楽そのものの議論には、そもそも位置を持たない作品もある。年齢、紹介文、キャラクター設定、タグを第一の動機にした投稿などだ。そのコメント欄でも、音への理解を飛び越えたり、音楽性に無理に結びつけたりして、賛辞が並ぶ。

速く作って速く消費する型どおりの作品も、飽きることなく、ホーム画面を一つずつ流れ続けるようになった。2025年の中国語の合成音声制作では、「反乌托邦(ディストピア)」に似た星尘と诗岸の組み合わせ、気軽に撮ったPV、MIDIのギター、青春の痛みが、典型的な目印となった。海の向こうの日本では、「メズマライザー」に似たミクとテト、簡素な人物の切り絵人形風アニメ、大量に詰め込んだ音、意味のわからない歌詞である。最近では、「ループザルーム」と「ブレインロット」の大流行のなかで、バックルームの記号を頻繁に借り、映像の場面や歌の物語を作る人が、急に増えた。こうした作品はどれも、なぜ突如大流行したのかを伝播の理論だけでは説明しきれない作品を、もとのミームとし、その正確に複製でき、形式の安定した殻を借りて生まれるのだ。その後、数か月にわたり、推薦されるというより、その場で生成されるかのように、濁流となって、腫れ上がった眼球を洗い、弾力を失った鼓膜にたまっていく。ここでは、弱い精神労働が、コミュニティーのイデオロギーの変化のなかで、「創作」が持っていた具体的な意味に取って代わっている。ミームは、この退化した、安全な「創作」によって、驚くほど再生産される。短い動画の論理に特有のこの仕組みは、2013年前後の最盛期にも目立たなかったが、コロナ禍後には、合成音声文化の主要な生産方法となった。もともと十年一日のように技術と表現を磨き、苦心して活動してきたクリエイターまで、この濁流のなかで、いつの間にか不安に染まっていく。これからの作品の表現に、徹底して責任を持つことが、ますます難しくなっている。

この変化は、ネットだけのものではない。ネットのコンテンツ生産の副産物となってしまった同人誌、同人アルバム、グッズの制作と提供にも、影響している。同人創作に関わった人なら、多少はこんな経験があるだろう。間近に迫る同人イベントや投稿企画を見て、「無理をしてでもやらなければ、何も出せない」と考える。その結果、徹夜続きで混乱し、疲れ果てても、準備は十分に整わない。これは結局、創作の自然で本質的な形ではない。王羲之が「蘭亭集序」を書いたとき、自分が「王羲之」であることを、知らなかったのかもしれない。今日こそ世を驚かす作品を書こうと計画したわけでも、これから書く「蘭亭集序」が、どんな姿であるべきかを知っていたわけでもない。いま、生産の強制に巻き込まれた同人クリエイターで、自分の状況を見極め、そこから離れようとできる人は、まだ多数ではない。巻き込まれるほど、「クリエイター」である自分の特別さや使命を強調しがちになる。他者としての自己を生産し続けるために、現実の自分を搾取するしかなくなり、ついには、創作と生活が完全に切れてしまう。

生産の強制がもたらす極端な結果として、次のような人もいる。他人の評価を重く受け止めすぎる人。自分より力のある人を、敬い、学ぶより、不安や危機として受け止める人。創作を神聖な使命とし、その役割を必死に維持する人。確かに、ときには偉大な作品を作るし、十分に尊敬に値する。ただ、その表現の本来性を問うなら、私には、いくらか疑いも残る。こうした状態が長く続けば、深い創作力にとっても明らかに有害だろう。同人イベントや投稿企画に、普通に「滑り込み」10で間に合わせるのは、もっとも軽い例だ。それでも、その論理の本質や意識の前提が、生産の強制と深く関わることは、簡単には否定できないと思う。長年そうした創作生活を送ってきた多くの人が、私に悩みを打ち明けてくれた。たとえば、長い付き合いのある友人が、ある日突然、それまで以上に人を圧倒する作品を生み出したり、あるいは単純に、異常なほど人気を集めるようになったりする。かつて自分と同じ界隈にいたその友人は、いつしかそこを離れ、界隈の大手クリエイターたちと交流するようになる。そうして不安が少しずつ積み重なり、描いては消し、消しては描く。あるいは、最近流行しているものを学ぼうとしても、うまくいかない。生活にも集中できず、優れた作品を生み出すことにも集中できない。そして、創作を続けることでかろうじて保っていた自己が、ついには崩れてしまう。私自身も、多かれ少なかれ、そういう人間だ。だからこそ、同人活動とはいったい何のためにするものなのか、そして、こうならずに同人活動を続けるにはどうすればよいのか、と自然に考えるようになる。「文人」という概念は、こうした創作生活の反対側にあるものとして、合成音声文化の議論に導入した。『毛詩序』には、「情が内に動いて、言葉に形を取る。言葉では足りず、ため息となる。ため息でも足りず、長く歌う。歌っても足りず、知らず知らず、手が舞い、足が踊る」とある。だが、いまはどれだけの人が、「長く歌おうとして、ため息を作り、ため息をつこうとして、言葉を作り、言葉を持とうとして、志を作る」という逆の順序にいるだろう。自分がそこにいることによって自己を再生産する、その仕組みに頼らない創作を考えられるなら、あくせくとコンテンツを生産するプラットフォームの現状から離れ、全体性を備えた主体として、創作の本質を取り戻すことも、難しくはなくなるかもしれない。

合成音声のサブカルチャー全体は、ますます盛り上がって見える。それでも、「聴いてほしい」と「聴いてもらえる」のあいだの溝は、広がる一方だ。有名なボカロPになりたい人が、大勢の注意とお金を消費する「商品としての音楽」だけを見て、そうした生産をどれほどできるかで自分の価値を測れば、多くは徒労に終わる。合成音声の聴き手は、無条件に応援する熱狂的な人ばかりだ、と感じる人がいるなら、それは、寂しい思いをするクリエイターが、いまの推薦の仕組みでは、その人の目の前に現れる機会さえ持てないからだろう。「再生数」という指標は、それが示す行動の意味を、あまりにも大きく膨らませている。多くの場合、記録しているのは、慌ただしい一瞥と指のスワイプにすぎない。あるいは、偽りの「多数派」に追いつこうとして、アクセス数の奇跡のなかで、他人の解釈を繰り返し、無理に共感する受け身の聴き手である。これが、2012年から今日まで、合成音声文化の記号の再生産を貫いてきた「工作」11につながる。「大工作期」は去っていない。いまでは、その担い手も一般の人々から、ユーザーの注意の行き先を支配できるプラットフォーム資本へ移った。そのため、私たちは「大広告期」、bilibiliでいえば「大必火時代」と呼べる段階に入っている。一方、数少ない、作品全体に深く向き合う鑑賞や、さらに少ない、投稿を媒介としたクリエイターとの現実の深い交流は、ひそかに再生数の「1」へと押しつぶされる。文人型のボカロPは、知識人だけが集う音楽生活を、意図して望むわけではない。だが、「再生数」に代表される数字の指標が、消費行動と美的な実践を、乱暴に一枚の平面へ押しつぶすことは、すでに見抜いているはずだ。そのうえで、落ち着いて作品を公開する。ネットを幽霊のようにさまよう、音を理解する「子期」たちが、ふと通りかかるとき、高くそびえる泰山と、勢いよく流れる水は、その一度きりの交わりのなかに、おのずと現れる。彼らはまた、特定のバーチャルシンガーが、アクセス数に縛られた現象の寄せ集めになることも望まない。心に宿るバーチャルシンガーの魂は、前に述べた美的な交わりを通して、空虚な記号の身体へ、ゆっくり戻っていくのだ。

ある大学の修士課程に在籍。研究分野は、音声信号処理、歌声合成など。

注

1

電則市場DizzyMartは、Dizzylab傘下の、音楽・芸術作品を専門とするマーケットのプラットフォーム。Dizzymartは、現時点で中国唯一の同人音楽即売会である。

2

李方元・俞梅「唐代文人音楽探析」『中央音楽学院学報』1998年、第3号、59–64頁。

3

朱厚爝『風宣玄品』「鼓琴训论(鼓琴訓論)」。

4

韩炳哲『仪式的消失:当下的世界』(安尼訳)を参照。「儀礼は……交わりのない共同体を作る。ところが今日、世界を支配しているのは、共同体のない交わりだ。いまの世界は、象徴においてとても貧しい。データや情報には象徴の力がないため、再認識することができない。象徴の貧しさによって、本来、意味と共同体を作り、生命を安定させるイメージや隠喩が、ことごとく失われる。持続する体験は減り、偶然性は急激に増す。儀礼や祭典は、真に人間的な行為であり、生命を祝祭的で不思議なものにする。その消失は、生命を冒瀆し、俗化し、生きることを単なる生存へ変える。だから、世界を再び魅惑で満たすことで、集団的なナルシシズムに抗う、癒やしの力を得られるかもしれない。」

5

『晋书(晋書)』を参照。「陶潜は……音律に通じてはいなかったが、弦も徽も備わらない、飾りのない琴を一張持っていた。友人と酒を飲むたびに、琴を撫でて唱和し、『琴のなかの趣さえわかれば、弦の音など、どうして必要だろうか』と言った。」

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『「VOCALOID」の脆弱性。』は、アメリカ民謡研究会/Haniwaが制作し、初音ミクが歌う楽曲。sm29387663 / av5669780(転載)

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Wikipediaを参照。「現象学的還元は……観察者の注意を、日常で当たり前とされる対象から、その対象が意識に現れる過程へ向けることを目指す。エトムント・胡塞尔(フッサール)は、現象学的還元によって、世界が存在するかどうかについての形而上学的な前提をすべて取り除き、意識の本質的な構造を探究できると考えた。それによって、すべての知識に、疑いえない基礎を与えるのである。」

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「滑铲」(滑り込み)は、近年の同人用語で、締め切り間際に慌てて制作することを指す。

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「工作」は、合成音声文化の用語で、不正な方法で再生数など、投稿の数値データを増やす行為を指す。知乎「vocaloid周刊里的工作是什么意思?」への再演の回答を参照:https://www.zhihu.com/question/312725798/answer/604427024