二月:花粉

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文:s62

二月:花粉 楽曲画像

短いが、生き生きとした作品だ。投稿を開くと、hanayaPも宵夜Mpaと同じく、水の模様を主な映像の素材にしていた。では、この「二月:花粉」には、どんな違いがあるだろう。映像全体には、同じ山の渓流を、いくつかの方法で加工したものが流れる。歌詞とのはっきりした関係はなく、むしろ、音そのものとの関係が深いと感じる。落ち葉、渓流、降り注ぐ日差し、丸い石の動きや配置が、音の印象と響き合う。全体に、少し跳ねるような、楽しい感じがある。その楽しさは、単純でまっすぐだ。語りには、老成した子どもの面白ささえある。老成というのは、歌詞のイメージや隠喩が、確かに深いからだ。子どもは、人に見せるもののなかに、他者をまったく想定しない、純粋に私的な体験は書かないだろう。

再生ボタンを押す。両耳のあいだで、正弦波のシンセサイザーが、決まったリフを繰り返す。だが、定位は変わり続ける。小節の終わりごとにあるドラムの短い休止も加わり、つかみどころがない。第9小節からは、少し離れたところで、やや長く響く音が鳴り始める。新しい音色のリフは、単純で明るかった正弦波の響きに、短調の色を添え、循環のなかで、抑制と超越を担う。その後も、シンセサイザーの音色が増える。わずかな音色の違いと、適切な音場の配置、効果の使い分けによって、多彩でありながら、層のはっきりした響きになっている。

また、音の織り方は、明らかにミニマル音楽の実践を受け継いでいる。珍しいものではないが、この曲では、とても面白く使われている。まず、曲に声部の区分がない。同じ音色が弾く音高の幅は比較的大きく、作者は、想定した音響空間でそれを区別し、適切に配置する。また、明確な和音を鳴らし、和声の色の方向を決める楽器もない。ほぼ全曲で、シンセサイザーのリフが多声的に織り合う。つまり、はっきりしたコード進行で、特定の和音の機能を強調するのではなく、旋法全体に、均等に色が生まれている。声の効果も、重視されている。

次は、言葉を見ていこう。語り、あるいは歌詞を、以下に書き写す。

外人のように 回心の鳥
像是异乡人一样 皈依的鸟
飲み込んで吐き出すのは
吞下去又吐出来的是
果実の亡骸
果实的尸体

すなわち
也就是说
花粉の糸の先に
花粉的线的另一端
残された 痕跡
留下的 痕迹

目から流す幻
从眼睛流出的幻觉
手に握る積乱雲
手中握着的积雨云
脳内に注ぎ込めば
倒入脑中的时候
引き起こすアレルギー
引发的过敏反应

全体としては、イメージが跳びながら連なり、身体性、内省、異物感、痛めつけられる体験を帯びている。この作風を、無理に物語として説明したり、象徴の意味を執拗に探したりするのは、適切ではない。花粉アレルギーの過程をたどる体験の流れと見るだけで、十分に没入でき、身近な経験の意識と無意識を、身体の近くへ取り戻せる。それでも、何か分析できるような顔は、してみなければならない。

冒頭は、外から異質なものが来ることを、直接描く。自然界で、鳥が種を運ぶ過程を書いただけにも見えるが、疑いと不条理がある。「回心」(曲では漢音の「かいしん」と読む)は、キリスト教の用語だ。作者の中国語版の歌詞では「皈依」、つまり信仰に帰することに対応するが、意味は、それだけではない。『日本国語大辞典』にある、唯一の説明は次のとおりだ。

かい‐しん【回心・廻心】

〘 名詞 〙キリスト教で、宗教的思想や態度の明らかな変化を伴った信仰的成長。キリストによる罪のゆるしと、洗礼とによって起こる心の大きな転換。

具体的にいえば、「回心」は、魂がある秩序へ入る過程だ。だが、「外人のように」「回心」するとは、どういうことだろう。本心に反した演技なのか、強いられた転換なのか。それとも、その秩序に決して受け入れられないことへの挫折なのか。わからないし、知る必要もないのかもしれない。免疫の障壁を越えて入る異物を前に、身体に、その意図を知る義務はない。免疫系の動きは、ただ異物を排除する反応のためにある。わかるのは、鳥が来ても、ただ果実の亡骸を反芻するということだ。果実は、花粉が実現したものであり、さらに完全な植物となり、次の生殖へ進まなければならない。でも、その前に、鳥にきれいに食べられ、亡骸が遠くへ投げられなければ、先へ進めない。つまり、ある生命の誕生は、一つの殺しから始まる。その殺しは、双方向かもしれない。自然の秩序は、異郷の鳥を排除し、脅かす。鳥も、回心に隠れて、新鮮な果実を消し去る。二重の排除のもとで、両側の秩序は、逆に、相手の排除に頼って成り立つ。宗教用語は、「禁断の果実」の故事も暗示するかもしれないが、ここでは、その読みを広げないでおく。

「花粉の糸」が、花粉管なのか、ツツジ属の花粉の粘着糸なのかは、わからない。花粉と糸という二つの概念を、理由もなく結びつけただけかもしれないが、おそらく、無意識に、花粉管についての知識から移ったのだろう。自然界では、花粉管の跡は、生命の始まりだ。しかし、人の身体に花粉が入ると、激しい排除が起こる。自然は、現代人が思い描く花鳥風月の背景ではない。互いに疑い、危険が続き、苦痛によって、生き物の法則を、予定どおり動かす世界だ。人間の社会がどうなのかは、私には、何とも言いにくい。