都市に生きる個人の波動方程式
文:s62

「颐和园(頤和園)」は、碑の拓本のような作品だ。鹿野潭之は、物としての頤和園から、言葉で時間の知覚を写し取る。「对一页水纹的记叙。(ひとひらの水紋に対する記述。)」も拓本だが、その碑は、長く残ることなど気にかけず、むしろ、できるだけ早く消えようとする。宵夜Mpaは、音で水の模様を写し取り、それをガラスへ織り込み、硬い都市の機械にはめ込む。水から引き上げたばかりのガラスを想像してほしい。重く、硬く、水を滴らせる。でも、水から出る前は、水と一体の透明なものだった。この曲の質感について、私が初めに抱いた印象だ。
QUOTE65ひとひらに記した
湿った水の模様
湧き立つ意味が
ここから生まれる…
水は、どうすれば記録できるのだろう。写真の流水は、流れを失い、視線のなかの流水は、瞬間を失う。音も同じだ。水の流れる音は、ほぼホワイトノイズで、特定の周波数帯に、安定して集中するエネルギーを見いだせない。フィルム一本分を撮り、ライトボックスに置いて、一コマずつ、隅々まで見てもよい。だが、誰の生活の時間が、そんなふうに都合よく流れ、一コマずつ考えることが許されるだろう。時間の流れのなかの物事を感じるには、無数の短い連続から、感覚が留まる点をいくつか捉えるしかない。瞬間をまたいでも変わらない現象や、全体として現れる抽象的な性質を捉えるのだ。水の模様は瞬間的で、保存できない。それを記録するのは、固定できないものを固定しようとすることだ。この努力そのものが、時間に抗い、留まる点を捉えようとする、人間の永遠の徒労である。でも、その徒労のなかにこそ、意味が生まれる。
だから私たちは、どの瞬間の水の模様も、形を思い出せない。それでも、紡がれる糸のように、二つの方向へ交わりながら伝わり、雲や空、木々、上にあるすべての色を、しわ寄せ、広げ、翻すものが、水の模様だと知っている。すると、そよ風と湿った空気、水音と蛙の声が、一緒に鼻と鼓膜へ現れる。流れる水を、二度とは同じように踏み入れられない、流動する媒質を、じっと見続ける。すると、かえって、そのすべてを、意味のはっきりした一瞬へ凝縮し、長く記憶に留められるのだ。
QUOTE66ゆらめく
波の中
この歌詞の前で、映像に順に現れていた、加工された水の模様が、急に変わる。行き交う人の輪郭が抽出され、車やビル、さまざまな現代の構造物が、水の色の単色へ置き換えられる。
水は、日常の言葉で使う、伝統的な比喩の素材だ。現代の都市生活では、全体として空間や感覚を満たしながら、細かく見れば、激しく動き、交差し、偶然に満ちるものを、よく水にたとえる。街の車列を「車水馬龍」、人の混雑を「押し寄せる人の波」と呼ぶ。時間や万物が「川のように絶えず流れる」といい、私たちの出会いを「流れる浮草のような出会い」ともいう。映像が続けて変わるのは、この比喩の関係を、視覚に移すことだ。水の模様と、都市の現象を感じることのあいだに、何らかのつながりがある。そのことを示そうとする、作者の意図も、直接伝わる。
德布罗意(ド・ブロイ)は博士論文で、物質波という概念を提唱した。すべての物質は、波の性質を示すという1。この仮説は、まもなく実証された2。巨視的な世界で、德布罗意(ド・ブロイ)波が、生活の現象に感じる「波動性」と関わるのかは、わからない。それでも、少なくとも、一つのことを示している。現代生活がどれほど目まぐるしく、景色がどう移り変わっても、実在する物質は、波の性質において、なお水の模様の方程式と同じ構造を持つ、ということだ。
QUOTE67昨日へと過ぎ去った
流れゆく自己は
絶えず姿を変える
時間と出来事の
印象がつくりあげた
実在を持たない
無数のキミと私
デュルケームは、『宗教生活的基本形式(宗教生活の原初形態)』の序論で、こう述べる。「時間の概念、あるいは範疇は、過去の生活の一部や全体を記念するものだけではない。抽象的で、個人に属さない枠組みでもあり、個人の存在だけでなく、人類全体の存在を含む。果てのない図表のように、すべての持続が心の前へ開かれ、起こりうるすべての出来事を、固定された、確かな目盛りに沿って位置づけられる。」3つまり、いま私たちが経験する時間は、本質的には「社会的時間」だ。あらゆる社会現象の知覚も、社会の個々人との関係も、最後には、時間の構造化された枠組みで整理され、確かな認識になる。具体的な人や物の実在を、もう直接、知覚で感じられなくても、時間を出来事の記憶の錨として、意識のなかに、その人の姿や、事実の性質を作り直せる。
現象学の時間意識論から見れば、QUOTE68昨日へと過ぎ去った/流れゆく自己は/絶えず姿を変えるは、意識生活の根源的な構造を、ちょうど捉えている。胡塞尔(フッサール)にとって、時間意識は、水の模様が流れる川であり、原印象、把持、予持が、その全体にある4。把持とは、「もはやいまではないが、まだ過ぎ去ってはいない。もはや知覚されないが、想起とは違う形で、なお意識される」5ものと理解できる。生活で経験する物事も、交流する他の個人、つまり無数のあなたと私の行動や言葉も、内的な時間の構造のなかで、把持の志向性に従って認識される。ただ、これはまだ、経験的な実在が私たちに与える、外からの刺激の話だ。他者についての一貫した印象や、再び思い描くことは、どう生まれるのか。同じ川のなかで、把持には、縦の志向性もある6。実在するあなたも、私のなかでは、実在のない形で、ときおり思い出され、省みられ、あるいは作り直される。「あなた」も志向する主体なら、私も、原印象の連続的な把持として、あなたの時間意識が作り直す、もう一人の私を支えている。では、「自己」はどうか。時間と出来事の印象が、実在のない無数のあなたと私を形作るなら、自己は、なおさら、この時間意識の構造に基づくはずだ。私たちが「自己」と呼ぶのも、この体験の流れ自体が持つ、一貫した統一なのである。それは、初めから用意されたものではない。川のなかで、把持と予持が織る暈のなかで、絶えず自らを生み出している。
この歌詞と音楽から広がる考えを、少し長く語りすぎた。引用した現象学の理論の、さらに詳しい説明は、文末の補足を参照してほしい。
いまは、作品そのものの素材へ戻ろう。この曲は、意識のなかで時間が外的な直観と結びつく性質を、さまざまな音と映像から、先験的な感性の水準で、鮮やかに聴き手へ渡す。映像を貫く流水、人や車、走馬灯。密度が高く、はっきり目立つピアノ、ギター、プラック系のシンセサイザー。左下に出続けるタイマーと、右下の拍子記号。繰り返されるものと、思いがけないものが、対照をなしながら、視聴覚のなかへ絡みつくように現れる。诗岸の声は、機械的にならないぎりぎりまで、冷静に、さらには無情に抑えられる。その声が、変拍子とポリリズムの複雑なうねりを、聴き手とともにうまく越え、広く、純粋な場所へ導く。現代生活に加速されたすべてが、ここでは単色の潮となり、独り立つ聴き手の自己に、ときおり打ち寄せる。時間を肯定する、この景色と音楽には、もう、ほかのものはない。
もちろん、この肯定そのものが、いま、それが極端に少ないことを示してもいる。
QUOTE69ひとひらに記した
湿った水の模様
湧き立つ記憶が
ここから生まれる
再現部では、湧き立つ意味が、記憶へ変わる。一度目は、意味が現れる過程だった。二度目は、前述のように作り直された、一つの想起になる。意図したかどうかにかかわらず、筋の通った構成だ。
QUOTE70私はどんな形をしているのか
偶然の化身なのか?
どこへ流れていくのか?
束の間の問い
泡のように水面へ消えてゆく…
冷静に述べる歌詞が続いた後、突然、問いが現れる。曲を聴いた身近な人に尋ねると、大きく三つの読み方があった。歌詞のなかでも、表現の方向が表れうる、数少ない部分なので、どの読み方を選ぶかで、作品全体の意味も変わる。
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「私」は、自分の形も、漂う先も知らない。問いは、ただの迷いから生まれ、音楽の定まらない浮遊と重なって、めまいを起こす。自己をまだ形作れていない、意識の原初の状態、縦の志向性から「人格的自己」がまだ沈殿していない段階かもしれない。この未完の主体は、真摯だが、見限ってはいない。時間意識の構造自体に、統一へ向かう可能性があり、いまの「私」は、まだ届いていないだけだからだ。それが、作品に、開かれた思春期の気配を与える。
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「私」は、定まった形がないことも、生の動きの最後の運命も知っている。問いは、実は消極的な反問で、5行目のQUOTE71泡のように水面へ消えてゆくが答えになる。そうすれば、先ほどの、実在のない無数のあなたと私も、ともに否定的な対象となる。自己も、他の主体も、時間のなかで一貫した物語を作れない。偶然の化身として現れ続け、方向を定められず、すぐに消える。泡のイメージは、形があっても壊れやすく、存在しても短く、水から生まれて水へ帰り、より大きな流れに包まれることを、強調するようになる。
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「私」は、この流動こそ、社会的時間の固定した目盛りに形を決められず、一方向の運動を強いられない証しだと考える。問いは積極的な反問で、問い自体の不条理を強調し、その解釈の権利、つまり自分の実現と運命を、自分の手で確かにつかむ意志を含む。その場合、QUOTE72束の間の問い/泡のように水面へ消えてゆく…は、途中で文を切ってはいけない。消えるのは、この短い問いそのものであり、問いは、そのまま宙づりにされる。
残念ながら、日夜揺れ、自分を保てない私には、三つ目の解釈は、前向きすぎて筋が通らず、怖くも感じられる。一つ目は、若すぎる。答えを探せる、そんなに広い空間は、もう私には見えない。どうあれ、いまは二つ目へ傾かざるをえないのかもしれない。
冒頭、水の模様をどう記録するか考えたとき、写真では、水の模様も、時間の次元で固定できないほかのものも、再現できないと述べた。なぜなら、「流体にとっては、占める空間よりも、時間のなかで流れることが大切だからだ。ある空間を占めるのは、結局『一時的』でしかない。ある意味で、固体には時間的な意味がない。一方、液体では、価値を持つのは主に時間の次元だ。固体を語るときは、その時間を無視できる。だが、流体を語るとき、時間の次元を考えなければ、重大な誤りになる」7。だから、流動する社会の「流動する自己」にとって、流れることは創造の可能性にはならず、速く移り変わる現代社会で、強いられた、終わりのない「変身」へと落ちてしまう。記憶と省察は、順に信頼を失い、働かなくなる。縦の志向性は、なお先験的に、構造として意識にあるが、人格的自己を作る力は弱められている。仕事、住まい、関係、さらには自己認識まで、水面の泡のように消えると、人格的自己は、いつまでも組み立て待ちで、確かな信念を蓄えられない。そのとき、無情に近いほど冷静な声を聴き、正確さと抑制を聴くと、そこには願いがあるように思える。「実在のない」潮のなかから、多くの原子化するリスナーたちのため、どうにか「私」と呼べる、私が「あなた」と認められる、一時的な輪郭を拾い上げたいという願いだ。
齐格蒙特·鲍曼(ジグムント・バウマン)のいう「液状化する近代」も、思い出す。アルコールランプで熱する溶液では、残った固体も、最後には溶ける。伝統が崩れ、時間・空間と個人の暮らしの安定した関係が崩れ、公共の領域や共同体が、また一つの鍋へ溶けるように。構造的な社会問題も、ますます個人にのしかかる。「自己」の理解は閉じ、よい社会関係を作ることにも、疑いが強まる。それなら、生活を、偶然の大海と捉えるほうがよい、と。いまの私が、形も行き先もない流体なら、以前もそうだったのか。これからも、ずっとそうなのか。いまは、そうだと答える人が増えている。この作品が生む交流のなかでは、記録された水の模様は、まだ、織り合う景色であり、有機的な共同体の残像を見せる。だが、作品の想像と交流の空間から目を離し、現代の生活へ戻ると、無数の交わる波が重なり、離れる姿しか見えない。互いに何も侵さず、きれいに分解できる波動方程式でしかない。無数のあなたと私が、流動する認識の空間に現れては、「泡のように消える」。「相濡以沫」、困難のなかで助け合うという言葉は、いつも肯定的に使われるようだ。だが、その出典は、誰もが学んだはずだ。「湿った息をかけ合い、泡で濡らし合うより、川や湖で、互いを忘れているほうがよい。」
QUOTE73昨日へと過ぎ去った
あるいはまだ訪れない
流れゆく自己は
絶えず姿を変える
時間と出来事の
印象がつくりあげた
実在を持たない
無数のキミと私
これが、作品の最後に示される姿勢、ほとんど逆説ともいえる慰めなのかもしれない。すべてが流れ、実在を持たず、最後には泡のように消えると認めても、诗岸はなお低く歌い、ピアノは震え、拍子記号とタイマーは、画面の隅で動く。意味の脆さを告げても、記録そのものは、自分を取り消さない。曲の質感は、最後にその題名、ひとひらの水紋に対する記述へ戻る。ひとひらは、川全体ではない。ひとひらとは、流れるものに、見つめられる可能性を与えることだ。たとえ一瞬でも、固定できないものへ、かつて目を向け、その記録を、一曲分の時間で肯定しようとした。それを示すには、十分なのだ。
「对一页水纹的记叙。(ひとひらの水紋に対する記述。)」は、反記念碑である。批判の力は、宵夜Mpaが何を言ったかではなく、生み出した聴き心地そのものにある。いま、歌が終わる。交わっていた映像と音は、真っ白なところに留まり、拍子は変わらず、タイマーも止まる。ガラスは水へ沈む。再び、水と一つになった透明な、見分けられないものになるのかもしれない。
注
De Broglie, Louis. Recherches sur la théorie des Quanta/量子理論に関する研究. Ann. Phys. 10 (3) 22-128 (1925).
Thomson, G. P. Diffraction of Cathode Rays by a Thin Film/薄膜による陰極線の回折. Nature. 1927, 119 (3007): 890.
デュルケーム『宗教生活的基本形式(宗教生活の原初形態)』渠东・汲喆訳、北京:商務印書館、2011年、12頁。
胡塞尔(フッサール)『内的時間意識の現象学』倪梁康訳、北京:商務印書館、2017年、66–73頁。
倪梁康「胡塞尔(フッサール)の時間意識分析における『把持』概念——心と言語の関係についても」『現代哲学』2007年、第6号、72–79頁。
倪梁康「胡塞尔(フッサール)の時間意識分析における『把持』概念——心と言語の関係についても」『現代哲学』2007年、第6号、72–79頁。
齐格蒙特·鲍曼(ジグムント・バウマン)『液状化する近代』欧阳景根訳、北京:中国人民大学出版社、2018年、24頁。